拙著に対する反響 1

 
 多分本書の読者は、楽しみながら読み進める人と、あちらこちら引っかかりながら不満と共に読み進める人に分かれると思います。理由は本書全体の構造のせいです。
 本書は、現代を「混迷の時代」とか「閉塞状況」などという悲観的現代観がはびこり過ぎている状況を打開するために書かれたものです。したがって、「悲観的現代観」を完全に間違っていると主張しているわけではなく、それは確かに現代の一側面をとらえているとしても、世の中全体がそのような暗い見方一色になるのはあまりも不健全なので、もっと色々な現代観を持つ人々が競合して輩出する環境を作るための本です。
 そのために本書は、使用説明書付きの組み立て部品集(キット集)の形をとっています。そのキット集の使用法にはもちろん単純化・図式化を施すと同時に、若干挑発的な宣伝文を付加しているわけですから、本書の語り筋に乗れない読者はその部分に引っ掛かってしまうのでしょう。
 その部分を、学術書を読む時のような態度で読もうとする人は当然引っ掛かってしまうわけです。
 私としては、大学生や一般社会人が楽しみながら読んでいるうちに、本書の提供するキットの使用法に慣れてきて、それぞれの読者がそれぞれの仕方で、そして自分で自分用のキットも案出しながら、一律化した現代観から抜け出して行くことを狙っているのです。
 勿論その使用説明書の大部分は、筆者が真面目に考えてきたことの吐露でもあるのですが、それはあくまで、現時点においてこの社会で意味を持つかもしれない戦略的意見のひとつでしかありません。そのことは本書において随所に示されているはずです。
 いずれにしても、積み木の使用法を説明するためには、実際に船か飛行機を作って見せる必要があります。本書もそのような見本例なのです。

 そしてまた、読んでくださった方々に概ね共通する感想は多分「本書の文体と内容の両方に共通する《異様な単純明快さ》」への快感と危惧と反感ではないでしょうか。
 それは『書標』氏に掲載された福嶋聡氏の「身も蓋も無さが須原一秀の真骨頂である」という文にも、あるいは人文ネットワークの読書会における桑田禮彰氏の「どこか日本的なものを感じさせる(事柄一般の複雑さと多面性の圧殺を裏に隠し持った)明快さ」という言い回しにも、さらには土屋進氏、大野英士氏、生江明氏の「大胆すぎる命題集のような本」という表現にも共通に顕われているのではないでしょうか。
このような反応は執筆当時から予想されていたことであり、そのため随所に断り書きを挿入していたつもりですが、どうも不十分であった可能性があります。そこで、ここではそれを補うような話をしておこうと思います。

 たとえば、私は「哲学は学問にはならない」とあっさり主張しました。すると、当然「学問とは何か?」ということが問題となります。
 そのためには、「哲学」と「数学」と「科学」の全歴史を踏まえると同時に、「現代数学」と「現代物理学」の最先端の業績を押さえて答える必要があります。しかし、それは「科学哲学」という分野の2度の――1度目はネイゲル流の、2度目はクーン流の――破産を経験した私としては、不可能とまでは言わないにしても、現時点ではほとんど誰にも期待できない作業だと考えます。そこで、その作業をスキップします。
 普通「学問的」という言葉は、(1)自然科学的文脈、(2)人文科学的文脈、(3)衒学的文脈で使われる可能性があります。ところが、科学者にも普通人にも、(2)と(3)の間は限りなく近いのに対して、(1)と(2)の差はあまりにも広大なので、(1)に限定しないと「学問的」という語の用法は安定しないと考えられます。つまり、身も蓋も無い科学主義的学問観です。
 これは衒学趣味を持たない普通人の普通の感覚に合うだけではなく、科学のもつ圧倒的迫力は誰にも解り易いので、政治的文脈では、意見の一致を図るための共通前提になりやすいという長所を持っています。
 と言うのも、「正義と真理」の名のもとに悲惨な歴史を刻んだ20世紀を経験した我々は、「正義と真理の理論」を名のるものに対して、(1)の意味での学問性を要求することはこの際正当だと考えるからです。
 そうすれば、普通人の普通の感覚で「真理」と「正義」に関して誰も大言壮語をしてはいけないことが簡単に納得できる上に、現代の政治と社会の改革はそのような納得から出発すべきだという本書の主張が提示しやすくなります。
 「この点に関しては複雑な議論は一切必要ない」という確信が本書の「異様な単純明快さ」の背景になっているとしたら、この際許されるのではないでしょうか。

 また、私は授業中に原稿の一部を受講生に読ませたりして色々な調査した結果、根拠付けと接続詞を最小にした文が最近の学生には受け入れやすいという印象を持ちました。その結果が本書の「1段落=1文」の文体ですが、それも本書を気持ち悪いほど単純にしているはずです。

 いずれにしても、「哲学の終焉」と「大衆社会論」とを結びつけた議論は誰かがしなければならないと思っていました。現代人が「自分の立ち位置」を確認するための一つのキッカケになると思うからです。